日本の課題―2つの「5月3日」

 1つは、昭和21年(1946年)の「5月3日」です。この日はマッカーサー司令長官の命令により、東京市ヶ谷で、日本政府の要人と軍人に対し、「東京裁判」が開始されました。日本に対するアメリカ側の訴状によれば、「日本は〝世界征服″を目論み、『支配と搾取』し、『侵略戦争』をしたとされました。」(児島襄氏)裁判は2年6か月もかけて行われ、裁判により、日本の東条英機をはじめ、主に陸軍の指導者7名が処刑されました。
それは、昭和23年(1948年)12月23日のことです。
〝戦勝国が敗戦国を裁く″これについては多くの国から批判を受けました。

ところがこれを進めたマッカーサーが処刑の2年後の昭和25年(1950年)10月15日、太平洋のウェーキ島におけるトルーマン大統領との会談で、〝東京裁判はやるべきでなかった。失敗だった。″と述べたのです。このことは当時の新聞の読売、産経、毎日、岩手日報(共同通信)と朝日を除く殆どの新聞に大きく掲載されました。なんたることでしょう。
しかし、この一方的な東京裁判での判決は、その後の日本の世情に暗い影を落とし、影響力を持ちました。

 もう1つの「5月3日」は昭和22年(1947年)の「5月3日」。この日に日本に新しく作られた憲法が施行されました。
今では周知の事実ですが、この憲法草案は占領軍が大急ぎで9日間で作ったものです。なぜそんなに急いだのか。それには明確な理由があったことが、今では判っています。

終戦の時の昭和20年(1945年)12月27日にイギリス・ソ連を含む連合軍によって新たに極東委員会が編成されることになりました。日本の占領軍はこの上部の委員会の決定の下に置かれることになったのです。
日本の憲法についても、この委員会で議論されることになりました。

日本との戦いに勝ったことを自負しているマッカーサーは、この決定に憤慨しました。そこで、極東委員会が本格稼働する前に、日本の憲法の改正を進めようとしますが、日本の政府は時間ばかりがかかり、なかなか思い通り行かない。
そこで、マッカーサーは急遽、昭和21年(1946年)2月3日に部下のホイットニー准将とケーディス大佐に憲法草案の作成を命じました。

メンバーはとにかく急いで集められ、作成にとりかかったのは2月4日。2月13日には日本政府に草案が提示されたということです。本当に9日間の出来事です。驚いたのは日本政府ばかりではありません。アメリカ本国にとっても〝寝耳に水″。極東委員会は「出し抜かれた」「欺かれた」と反発し、憤りました。しかし、アメリカの草案は、すぐ日本に認めさせたので、〝もう後の祭り″です。極東委員会もこれを覆すことはできませんでした。

マッカーサーが日本の憲法の成立に関与したことは、徹底してメディア、記録を検閲し削除させました。〝日本の憲法は自らの意志で作られた″とされました。

占領軍が占領を開始して、日本にやった処置は言論統制と検閲です。8,000人を超える人々が検閲をし、すべてメディアをチェックし組織的にやっていました。占領軍の意に添わない人は遠慮なく公職追放し、20万人を超えた。こんな統制下で日本人として、憲法についての自由な議論は成り立ったのかです。NHKはじめメディアは、、この重要な事実になぜか触れようとしない。これが真実の憲法議論を妨げています。(サンケイと読売は別です。)

しかし、今は情報公開され、インターネットで自由に情報を得られる現代。
もう嘘はバレバレです。
日本の憲法は施行された昭和22年「5月3日」から計算して、変えられることなくもう74年も経っているということです。憲法改正はタブー化され正に手つかず。
こんなことは、他国から見たら〝バカらしい″としか見えないでしょう。真に日本の恥にも近い。憲法改正に反対している人、野党の方々にいずれ歴史の審判は下されるでしょう。

サンフランシスコ条約の時の南原東大教授をはじめとした現実離れした「全面講和賛成」の騒ぎに似ている。現実的な意見を持っていたのは慶応大学元塾長、小泉信三氏ぐらいだった。「多数講和」の方が正解だった。これが歴史の真実というものです。
恥をかくのは誰でしょうか。国民はしっかりこれを見るべきです。

2021.5月3日        
日本会議岩手県本部会員
K・CとT・B

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